Dooard -ドアーズ- (3)

梅園カノン//木下日丸様からのフリー小説です^^












──Cogito,ergo sum.
──我思う、故に我あり。
目に映るもの、聞こえるもの、感じるもの、とにかくこの世界に存在する具象的抽象的そんな全部をひっくるめた凡百、万物、つまり森羅万象全て。可視不可視を問わず、他人、自然、空気、時間、重力、宇宙なんかも、全て。フランスの哲学者デカルトが、それら全ての存在をひとつひとつ否定し、疑ってみたとき、最後の最後まで、否定できなかったもの。それは何か。
自分自身だ。
それらを否定しようとする、疑おうとする自分がいるということだけは、彼はどう足掻いても否定することができなかった。否定すれば、それは取りも直さず、「否定する自分」の存在を認めることになるからだ。
我思う、故に我あり。この言葉の語源は確か、そんなものだったような気がする。

と、こんなくだらない御託を並べてみて、要するにオレが言いたいことは、たとえ万物全てが疑わしく思われても、そこに自分自身の存在だけは確やかに残る、ということだ。
どんな不可解な空間に置き去りにされても、自分だけはしっかりここに在る。
確固たるアイデンティティーだとか自己の存在証明だとかそんな小難しい話を持ち出すつもりはないけれど、とりあえず、その事実にはちょっとだけ、安堵できる。
周囲がどう変動しようとも、そう、とりあえず、オレはここにどうやら立っている。
そんな卑小な安堵感だって、酒の肴ぐらいにはなるのだ。

なんて、そんな格好良い思想が持てるようになったのも、全部、ロイのお陰なんだけど、な。


Dooard -ドアーズ- (3)
〔50万打&一周年記念フリー小説〕


嗅覚というのは他の感覚たちとは違い大脳と直接的に繋がっていて、だから、それを上手く用いれば自分の気分や心地なんかを大きく左右できる、と聞いたことがある。アロマテラピーなんかはその典型的な利用法だ。
そんな基礎知識みたいなものはあっても、紅茶から発される木苺の匂いは一体オレをどんな気分にさせてくれるのかなんて知らないけれど、とりあえず、こんなフレッシュな匂いと共に清澄な朝へと迎えられて、嫌な気分になるはずはない。
まだ瞼は閉じたまま、くん、と鼻をうごめかした。あの紅茶のにおいだな、とすぐに分かった。ふ、フラン、ええと、そうだ、フランボワーズ。
「フランボワーズ」
嗅覚だけを頼りにオレを取り巻く空間とか世界を認識しながら、言ってみる。カミカミになるかと思ったが、存外、流暢に発することが出来た。視界はまだ閉ざしたままだ。
くんくん、ともう一度鼻をひくつかせ、よし、紅茶がオレを待っている、目を覚まそう、と思ったところで、ひくつかせていたその鼻の頭に、キスが落下してきた。
驚愕に任せて、ひっなんていう奇声を甲走らせながらバチッ!と瞼を開く。そこには当然、ロイの顔があった。このだだっ広い屋敷には、オレと彼しかいないのだ。
「おはようさん」ロイが淡白に言う。
「なっ、何やってんだ、オっ、お前、そういう趣味、う、ウソだろ、オレ、出てくぞ」
「女の下宿人はこうやって起こしてやると喜ぶんだ」
「お、オレは下宿人でもましてや女でもねえ!よって全ッ然喜ばん、俄然萎える!」
「一部の男でも喜ぶだろうか、という、そういう一種の実験的な試みだ」
「そりゃ良かった、見事、完全なる大失敗に終わったわけだ」
「そうみたいだな」
早く起きろよ、紅茶が冷める、とロイはオレを急かした。オレは“実験的な試み”によって理不尽なキスを受けた鼻の頭をごしごしとパジャマの裾で拭ってから、顔を顰めつつ、布団から這い出た。どこまでが本気なのか、よくわからない奴だ。

朝食の席について、ベーコンエッグと焼きたてのトースト、そしてサラダ、という朝食を確認したあたりで、ああ、現在オレが陥っている不可解な状況は、何一つ元通りにはなっていないんだな、と思った。軽く気落ちしながらも、眼前の、食指が動く香気を漂わせるベーコンエッグを見ながら、ロイが作ったのか、と考える。
「・・・・サラダに、トマトが欲しい」
オレは九割方緑の葉っぱが皿の上を占領するサラダを見ながら、懇請した。輪切りにしてあるゆで卵はたいへん良い彩りになってはいるが、赤が欲しいところなのだ。
「わがままを言うな、俺はトマトが嫌いなんだ」
「あ、そう」
それなら、やむを得ない。自分が嫌いだからってそのエゴで朝のメニューに加えないなんて、ガキくせえな、と罵倒もできるところだったが、オレがロイの立場だとしたら、間違っても朝のメニューに牛乳を加えたりはしない。相手が好きかもしれないから、と思って嫌々朝の食卓の上に牛乳を並べるほど、オレは侠気や太っ腹精神を持ち合わせた男ではない。
「なんか、グロテスクだろ」ロイは紅茶をカップに注ぎながら、続ける。
「ああ、中身が?ぐちゃっとしてるから?」
「そう」ティーポットを、机の上に敷いてあるタオルの上に戻した。ポットを保温するためのタオルだ。「あの野菜を最初に食べた者の勇気には、崇敬するな」
「外からはグロテスクに見えないから、うっかり食べちゃったんじゃないの、中身も外見と変わらぬ実が詰まってると思ったのかも」
「それはそれで、その無謀さと無計画さには平伏す」
「まあそう言うなよ、無類のトマト好きにとっては崇め奉るほどの勇敢さでもあったわけなんだから」
トマト発見譚について冗長な討論を交わしたあたりで、朝食の準備が整ったらしい。
いただきます!の挨拶を朗々と唱えてから、焼きたてのトーストにかぶり付いた。その上に妖艶とさえ表現したくなるような風情で溶けているマーガリンは、盛夏のうだるような暑さにうなだれているようにも見えた。
セミが朝っぱらから──とはいえ、じきに十時を回るけれど──、盛栄を見せる太陽の下でここぞとばかりに鳴き声を張り上げている。起き抜けの頭にその喧しい大合唱はかなりガツンと来るものがあるが、命短しといった感じで精魂尽きるまで鳴き続けるようなセミの決死の鳴き声は、爽快でもあった。今日から九月とはいえ、まだまだ夏の暑さは尾を引いているようだ。
「命短し──」サラダのゆで卵を頬張りながら、呟いた。
「セミがか?」ロイは紅茶を啜りながら言う。
「・・・・そうだけど、」オレは合点が行かぬ様子で、眼前の青年を振り返った。「命短しときたら、恋せよ乙女、とか、普通続けるだろ。ヒントもなしに『セミがか?』って」
「夏で“短命”の代名詞といったら、セミぐらいだろ」
やっぱりこいつは、透視能力があるわけだ。

***

消えたマイホーム、ショッピングモール、そしてオレの高校の在籍記録。次々湧き起こるそれらの奇怪な事実に対する、錯綜した思慮や多大な不安なんかは当然まだまだ払拭しきれていないが、人間不思議なもので、こんな現状であろうとも、腹は減る。
朝食を平らげ、ロイが皿洗いに専念しているのを尻目に、オレは莫大な数の紅茶缶が入っている観音開きの下の開きをあけ、そこに収まっている菓子類を勝手に漁り始めた。他人の家で無作法極まりないが、回答が面倒という理由でそういうことを自由にやって良いと許可を下したのはロイなので、オレはお言葉に甘えて我が物顔で棚の中の菓子類を吟味し始めた。
ポテトチップスを発見する。問答無用で手に取る。コンソメ味、私的にはのりしおの方が好ましかったが、まあ良しとしよう。
そして、オレはふと目を落とした所に、驚愕の文字を見た。
賞味期限、「96/01/03」。
「・・・・・は?」
我知らず、漏らした。今は二〇〇五年だ。単純計算で、それは九年前にあたる数字。
な、なんてことだ、と思う。ロイのやつはここ九年間も、まともな菓子を食っていないのか。
大袈裟な舌打ちをしながら、その腐りきっているだろうポテトチップスを早々と脇にあったゴミ箱へ投げ入れた。長いこと持っていれば、オレの手まで腐敗してきそうな気がしたからだ。
菓子を奥から引っ張り出し、ひとつひとつ賞味期限を確認していく。もしかしたら美術館に寄贈できるほどの珍品が出てくるかもしれない。
95年、96年、そのあたりの数字ばかりが目に飛び込んでくる。うーん、この程度では美術館行きにはならないよな、と言って食えるわけでもないし、最悪だな、とぐだぐだ文句を垂れながらも探索を続ける。
するとここで、懐かしい声が聞こえた。
どこから響いたのかと思って部屋を見回すと、その声はテレビから漏れてきていた。ずいぶんと懐かしさを感じる俳優がそこには映っている。数年前に大病で急死したはずの俳優だ。その時はありとあらゆるメディアが、佳人薄命などと上滑りな四字熟語をこれ見よがしに書きたてて大いに騒いだものだ。
一瞬、再放送かな、と思った。オレもその俳優が嫌いではなかったので、不意に訪れた懐かしさを噛み締めながら、菓子探索を一旦中止して、テレビのほうへ意識を注ぐ。
まだ皿洗いをしているロイに、この俳優懐かしいな、と声を掛けようとした矢先だった。
テレビの隅には、「生中継」の文字が、はっきりと映し出されていることに、気がついた。
ゴトン、とオレは持っていた飴の瓶詰めを、床に落としてしまった。
テレビから流れ出る情報全てを鵜呑みにしてはいけない、適宜に取捨選択してから掌握すべきだ、と、昔誰かに教えられた記憶がある。でもその箴言の真意は、オレが今我が目を疑っているものとは、かなりズレているだろう。生中継とはっきり表示されていたら、それぐらいは、どんなに取捨選択してみたって、信じても良いと思う。
オレは瞬きを忘れ、そのテレビの隅に、申し訳なさそうに映し出されている白文字を、呆然としながら見つめた。
築七年の消えた我が家、最近できたばかりで、これまた消えたショッピングモール、洋菓子屋店長の若返った様相、使えない新札、消滅したオレの高校在籍記録──確かに、全ての辻褄が合う。けれど、信じたくはなかった。
「おい、お前、なんてことしてんだ」ロイが、賞味期限切れのお菓子をぽんぽんと捨てていくオレの背後に仁王立ちし、苛立ったような声をあげた。
(・・・・賞味期限なんて、切れていないんだ、)
オレはその苛立った声を無視して、目はテレビのほうへ向けたまま、口を開いた。口腔が異様な渇きをみせるので、非常に、喋りづらい。
「・・・・なあ、ロイ、すごく馬鹿げたことを、聞いてもいい」
「は?その前に俺が、お前の今行っている菓子の理不尽な排除行為の理由を尋ねたいんだが」
その言葉は無視して、オレは続けた。
「いま、西暦、何年」
ロイの言葉を全てスルーするオレに、彼の声はますます不機嫌になっていくが、答えてくれた。
「一九九五年」
ああ──丸々、十年前にあたるわけだ。

「・・・・オレ、じゅ、十年、」
心臓がドクドクと非日常的な動きを見せる。掻き鳴らされる早鐘と警鐘、心臓にも筋肉痛というものがあるのなら、明日オレは起床の際、寝床の中で胸元をおさえて悶絶することになるだろう。
多量のアルコールを強引に服用させられたかのように、気分が悪くなり、吐き気にも近似したものが怒濤のように押し寄せてきた。だけどオレが服用を強要されたのはアルコールではなく、錯乱状態の渦巻く心境と、どうしようもない不安と喪失感、絶望感だった。
ロイが顔を顰め、床に腰を下ろすオレに視線を落としている。たとえオレがもともと床に座り込んでいない状態であっても、錯乱状態に陥ったオレはへなりと自然に床に尻餅をついていただろう。だって現に、オレは今足が震えて、とても立ち上がることなんてできない。
「十年、どうしよう、な、何が、オレは、」頭の中で飛び交う言葉の断片をひたすら吐き出す。なにを、どう説明すれば良いんだ、この目の前の人間に、オレは、なにを、どうやって。「だ、だって、オレが、生きていたのは、二千──」二〇〇五年、だ。
手が、肩も、唇も、声も、震える。
酷いアルコールが回って、頭の重心が頼りなく、焦点も虚ろなオレの肩を、ロイが突然ガシッと掴んだ。オレは肩をびくつかせて、蹌踉たるふらつきを見せていた焦点を、ロイに合わせた。
「落ち着け」艶やかな漆黒が灯る瞳が、オレを貫くように見据えてくる。「まずは、そこからだ」
「だっ、そんな、こと、言ったって、」
思考の回路たちが全て間違ったところに相互に繋がりあってしまっているオレにとって、『冷静』という言葉は最も遠い存在だった。
ロイはそんなオレの左手を粗野な動きで鷲掴んで、その手をオレの胸元に当てた。自分で自分の胸に手を当てる形になったオレは、落ち着くどころかむしろ眼前の青年に対する疑問符をひとつ増やす羽目になった。
「ここに、何がある」青年は言う。彼の名前を思い出すことさえ、徐々に難しくなっていく。
オレの左の掌からは、皮膚の向こう側から心拍が響いてくる。むろん、正常な心拍ではなかった、だけどちゃんと、動いている。ドクドクとでたらめな動きで、それでも止まることなく、オレの全身へ血液と酸素、ややもすれば混乱をも、送り出している。
心なしか息切れしながらも、オレは青年の質問に答えた。「・・・・し、し、しんぞう」
「そうだ、」彼の目から放たれる利剣が、オレを射止めて、動きをぴたりと止めさせられる。反論も、反駁も、きっとオレにはできやしない。オレは赤ん坊のように、目の前にいる青年の言葉に耳を傾け、それを妄信し、ひたすら縋るしか、手段はなさそうだ。「お前の身に何が起こったのか、俺にはまだわからない。だけどとりあえず、お前は生きている。ここにちゃんと存在している。大丈夫だ、俺が立証する、心配はない」
大丈夫だ。
それはオレが一番、欲していた言葉だ。自分の口ではなく、他人の口から、その言葉が欲しかった。大丈夫、大丈夫だと、断定してほしかった。嘘でも気休めでも構わない、とりあえず錯乱したオレを宥めるのには最上の、その頼りない言葉が、ずっと欲しかった。
この家に招き入れてもらったときのように、ぷつり、と切れた緊張と混乱の糸のせいで、また目の辺りがじわりと熱くなってきたけれど、歯をくいしばって、どうにか堪えた。何度も、情けなく泣きむせぶ様を呈するわけにはいかない。仮にも俺の方が、年上なのだ──少なくとも、今、この空間の中では。
ここは十年前の世界で、その時点でロイは十七で、つまりオレがいた十年先の世界では当然彼のほうが年上なわけだが、そんなことはどうでも良い。オレにとって大事で重要なのは、現在目の前に広がっている、この十年前の空間なのだ。
そうだ、周りがどう激しく変動したって、オレはとりあえずここに生きている。オレの心臓は動いている。これからどうしようとか、なにが起こったんだとか、面倒なことは全部後回しだ。オレはちゃんとここに居て、ちゃんと心臓を動かしている。そうだ、何か、文句あるか。
ふう、とオレはひとつ息を吐き出した。「・・・・は、はい」と、ロイに、何故か恭しく返事をした。大丈夫だ、心配はない、そうだ、その通りだ。
ロイは満足したのか、うん、とひとつ大きく頷いて、オレの頭をわしわしと撫でた。
「ぎゃっ!何すんだおい!」オレは身を屈めて喚く。
ロイはすっくと立ち上がり、オレを指差し、命じた。「とりあえず、ゴミ箱から菓子を全部拾って、お前が食え」もったいないお化けがでるぞ、とロイは続けた。
「な、なんだよ、“もったいないお化け”って・・・・」髪を手で撫で付けながら、笑った。いくらここが十年前でも、そんな古めかしい言葉聞いたことないぞ、とオレは無音で呟いた。

***

オレはどうやら、タイムスリップしたらしい。丸々、十年前に。
オレがそう淡々と言い切ると、ロイは紅茶の注がれたカップをカタン、と受け皿に置いた。「・・・・へえ」
「うわ、何その、驚きの“お”の字もないような返答。すごくがっかり、オレ」
この反応に比べれば、自分の息子にゲイであることをカミングアウトされる親のほうが、はるかに驚くに違いない。オレの場合は、同性に恋愛感情を持ってしまう性癖がある、どころの非常識さではないはずだ。オレは未来からきたんだぞ、もっと驚いたり感嘆してくれたりしたって、良くないか。同性愛者は世界人口の約十四パーセントだって言うけれど、きっと未来からきたという人間は今のところ、世界でオレだけ、ただ一人だ。たぶん。
「いや、お前がさっきあれだけ混乱していたから、それぐらいのエキセントリックさは覚悟していた」そう無関心な響きで告げると、砂糖を紅茶に少し加えて、ティースプーンで混ぜる。実に高雅な所作だ。「ミステリーではないな、残念ながら」
ロイの唐突な切り出しに、オレは当然、へ?と返した。
「現状を小説にしたいなら、ミステリーのカテゴリーではなくて、SFだな」
オレが昨日風呂場でひとりごちていた事を、蒸し返しているわけだ。オレは恥ずかしさと、どうしてこんなときにそんな呑気なこと言ってやがるんだ、という怒りとが相俟って、そりあえず顔を赤らめた。
「うっ、う、うるさ、」
「お前はどうやってここへ来たんだ?」
うるさい、と声を荒げようとする(つもりではあったが、結局腑抜けな声音になった)オレを遮って、ロイが問うた。えっ、と身を引いたオレが次の瞬間に思い当たったのは、あの不可解な時計だった。原因はあれだ。間違いなく、そうだ。
「と、時計」
「は?」
「変な、時計が・・・・」
自宅のリビングのテーブルに無造作に置いてあったあの不思議な、デジタル時計がふたつ表示できるコンパクトな時計。その側面にあるボタンをうっかり押したら、突如として眩耀する光がオレの身体を取り巻き、わけも分からぬうちに、オレは田園風景に投げ出されたのだ。
オレは昨日履いていたジンーズから、その時計を取り出した。「あっ」
「・・・・なに?」ロイが後ろから時計を覗き込む。
「時計が、表示されてる」
ここへ飛ばされる前、つまり十年先では何も表示されていなかった液晶に、数字が出ている。「95/09/01/12:44」だ。まさしく、現在、というか、オレにとっては十年前で、ロイにとってはリアルタイムな時間が、刻々と時を刻んでいる。
もうひとつの液晶に表示される、十年後、つまりオレにとってのリアルタイムは相変わらず、「05/08/31/14:25」で動きを止めていた。
「なんだ、これ」
「た、タイムマシーン」我ながら、なんて稚拙な言葉を用いているんだろうか、と思う。でもそれ以外にこの小さな時計を表現できる語彙は、オレの脳髄からは検出できなかった。
「これが・・・・?」ロイはオレの手から“タイムマシーン”を取り上げる。「タイムマシーンってもっと、仰々しくて、例えば人が乗り込めるようなやつじゃねーのか。何、このコンパクトさ」
「お、オレに聞くなよ・・・・居間のテーブルに、無造作に置いてあったんだよ」
「なに、居間のテーブル?こんな文明最先端の利器と、なんてあっけない邂逅を果たしているんだ、お前は」
「だから、オレに聞くなって」
仮説を立ててみるのなら、たぶん、この“タイムマシーン”を作ったのは、オレの父親だろう。比類なき天才的な頭脳の持ち主と謳われ、発明者として世界中にその名を馳せ、テレビにもひっぱりだこな、あいつだ。
オレが漫然と費やしていた夏休みの日々を思い出す。一日ごとに細胞が一億個ずつ腐っていくような退屈に包囲された夏休みの記憶の中で、父親はどこか機嫌が悪かった。「失敗」だとか、「失敗作」だとか、ぶつぶつと呟いていたような気もする。
「・・・・失敗作」オレはロイに取り上げられた時計を見ながら、漏らすように吐いた。
疑念を表情に塗りつけてロイはこちらを見る。
「失敗作なんだ、たぶん、それは」
「は?」ロイの顔中に塗りたくられた疑念は、一層濃度を増した。「なんでそうなるんだよ、現にここに来てるじゃねーか」そうオレの意見に反論してから、繁々と、ためつ眇めつ時計を眺める。「タイムマシーンとしての役割を、完全に全うしている。どこが失敗作だ。大体、誰が作ったんだ」
「だから、失敗作だと、思われてた」製作者を問うロイの言葉はとりあえず右から左へ。オレはまくし立てる。「だけどそうじゃなかった」
ロイが少し目を剥いた。「・・・・だから居間なんかに放り投げてあったと」
「そういう、めちゃくちゃででたらめな奴なんだ、あいつは」オレの声が明白に暗然として、トーンを落とす。「自分の思い通りにいかないものは、すぐに唾棄する。昔からそうだ。プライドと自尊心の塊なんだ」
「誰のことを言ってるんだ、おい、自己完結するな」
「父親」ふい、とオレは時計から視線を逸らした。外では、セミのミンミンという断末魔が聞こえてくる。命短し、だ。「その時計の、たぶん、製作者」傍迷惑、極まりない。
「ふーん」ロイは時計を高く掲げて、四方八方から観察している。「親は著名な発明者かなんかなのか、凄いな」
「別に」にべもなく放つ。「たまたま秀でてたのが、そういう世間から注目されるような種類の部分だっただけだ。他のことは何にもできやしない」オレなんかはよっぽど、美味しい紅茶を入れられる才能に長けている者の方が、羨ましいと思うし、尊敬する。
「十年後の時計は、止まってるな」ロイが液晶に意識を注いで、オレに報告した。「好都合だな」
「・・・・何が?」
「こっちの時計が動いていて、あっちは止まっている。同時進行ではない。十年後の時間はいま、多分止まっているんだろう。もっとも、あっちの人間は止まっていることにすら、気付いていないだろうが」
「その何が好都合なんだよ」オレはずいずいと一人で推測を進めるロイに詰め寄る。
「アホ、もしあっちも平常どおりに時間が動いていたら、今頃お前が消えたことで周囲はてんてこ舞いだろ。著名発明家の息子が突然姿をくらました、逐電か、家出か、はたまた身代金目当ての誘拐か、なんてな。こっちはSFだが、あっちは立派なミステリー小説状態になってる」
「・・・・・なるほど」悔しいが、頷かざるをえなかった。「オレ、帰れるのかな・・・・」そんなふうに、オレが今最も懸念している問題を口にしたところで、はっと閃いた。「そうだ、オレが十年前住んでた家に行けば、家族も、みんな、いるんだよな?そこに帰れば──」オレが十年後に住んでいる家は、築七年なのだ。そこへ越す前の、確か借家だった家へ行けば、母親も、弟もいるだろう。
「馬鹿か、お前」そんなオレの提案を、ロイは無情にもずばりと切り捨てた。
「な、なんで」
「お前が十年前、つまり今、住んでた家には、十年前のお前がいるんだろ。つまり八歳のお前だ。そこへ十八に成長したお前が行ってでもしてみろ、家族も、デジャヴを見た八歳のお前自身も、その場で卒倒する。世間は大パニックだ」
う、とオレは言葉を詰まらせた。返せそうな抗弁もない。
「お前が飛ばされてきたのがこんな田舎だったのは、不幸中の幸い、とでも言うのかもな。とりあえずお前のこと──十八のお前のことを知っているのは、ここでは俺だけだ。世間がパニックに陥る事態は、俺さえ黙っていて、お前が迂闊に街中に出たりしなければ、免れる」
「じゃ、じゃあ、オレは一生、この屋敷の中で生きていかなければ、いけないのか」それぐらいなら、カビが生えてブルーチーズになって、誰かに食べられるほうがマシだ。
「リミット、二ヶ月」ロイは持っていたタイムマシーンもどきのデジタル時計、否、デジタル時計もどきのタイムマシーンを、オレの鼻の先にずいと突き出した。オレの鼻の先に突き出された時計の側面には、「limit:2month」の文字。「俺の予測が正しければ、二ヶ月後にタイムマシーンとしての効能が切れて、十年後に戻る、ということになるな」
「に、二ヶ月・・・・び、微妙な数字だな」カビが生えてブルーチーズになるには、十分な月日のようにも思えた。
「そこを突っ込むなよ、文句を言うなら自分の父親に言え」
「そりゃ、そうだけど・・・・」
ほい、と言って返された時計を、筆舌には尽くしがたい、なんとも複雑な気持ちで見つめた。そうして、二ヶ月・・・・、と小さく漏らしてみる。
「二ヶ月、か・・・・」
くどい位に『二ヶ月』を繰り返すオレの頭に、突然ばふっと被せられたのは、花柄のフェイスタオルだった。短く奇声を走らせるオレの頭上から落とされてきたのは、こんなお言葉だった。
「皿を拭け」厳然たる、とでも言いたくなるような、有無を言わさぬロイの声音。「働かざる者、食うべからず」まるで大槌か何かに頭蓋骨を殴打されているかのように、重く響いた。「二ヵ月にわたる食費分ぐらいは、しっかり働け」
オレは花柄タオルを頭からずり下ろし、ぶす、と唇を尖らせる。今の今まで混乱しきって狼狽していた人間に、気遣いもなしに、こんな辛辣な下命だ。腹立たしいったらありゃしない。
そのタオルにさえ、紅茶の香りがほんのりと染み付いていた。
「・・・・金持ちのくせに、食費ぐらいでぶつくさ言うなよ、けちんぼ」
「セミがどうしてあんなに必死になって鳴くか、わかるか」ロイは唐突に切り出す。こいつの言うことはいつも、多かれ少なかれ唐突さと突飛さを孕んでいる。「命が短いからだ」
「それが、なんだよ」
「お前がここに居られる期間は二ヶ月。つまりある意味では、命短し、だ」
おおよそ、ロイの言いたいことがわかってきた。
「命短し──だからこそ、お前は一心に働くべきだな」
オレは、別に面白くもねえよ、と無音でロイを罵りながら、紅茶の香り舞うタオルを持って、不承不承、台所へ向かうために立ち上がった。

外ではセミが鳴いている。
それは十年前であっても、少しも変わることのない、やはり必死な鳴き声だった。


*TO BE CONTINUED*





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梅園カノン//木下日丸様からのフリー小説です^^
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テーマ : 鋼の錬金術師 - ジャンル : アニメ・コミック

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