Dooard -ドアーズ- (5)

梅園カノン//木下日丸様からのフリー小説です。












窓から差し込む白っぽい月の明かりは、ロイの左頬の輪郭を柔らかく撫でるように照らしていた。採光の源は月明かりだけというこの薄闇の中でも、彼の長い睫毛はその存在をしっかりと湛えている。その長くて綺麗な睫毛を伏せるようにロイが瞼を閉じて、微かに眉根を寄せたのでオレはなんだか心配になって、思わず彼の額に手を伸ばした。この薄闇よりも深くて優美な漆黒は、きっと神様のとっておきの絵の具なんだろうな、とオレはそんなことを思いながらそのあまりに美麗な黒の前髪をよけて、ゆっくりとロイのおでこに触れてみると、ちょっとだけそこは汗ばんでいた。だいじょうぶ、とオレが尋ねたら、ロイは目を開けて、こっちの台詞だよ、と笑った。
その笑い顔をたまらなく愛おしく感じてしまいそうになったので、オレは慌てて目を逸らし、自分の左腕で顔を隠した。するとロイが、なんで隠すの、と熱い吐息まじりの声、しかも含み笑いで囁きながら身体を動かして腕を伸ばし、オレの左手を退けようとする。ロイが身体を動かすのと連動して、繋がった部分にも揺れが生じる。ん、とオレは詰まったような声を出すことで、喉から恥ずかしい別の声があがってしまいそうになるのを堪えた。
「う、動くなよ、バカ・・・・!」息も絶え絶えにオレがロイを詰ると、
「動かないと終わらないけど」飄々とした答えが上から降ってくる。
俺をイかせないつもりなの、それはずるいだろ、自分ばっかり、とロイはとんでもない事をそよ風のようにさらりと言い放つ。かあ、と顔に熱を持ったオレはこいつの背中を踵で蹴り飛ばしてやりたい気持ちでいっぱいだけれど、そんなことをしたら繋がった部分がまた疼いてしまう、ので、できなかった。
指を絡ませるようにして両手をロイに繋がれ、その状態でベッドに手を押し付けられたオレはどうやっても赤くなる顔を隠すことができずに、首の筋肉が限界の悲鳴をあげるまで顔を横に向けて、話す。
「お、お願いだから、」はあっ、と息をついて、それから唾を飲み込んだ。嚥下したのは、オレの唾液か、それともロイのか、判然としない。「う、動かないで・・・」
ロイは眉間に皺を寄せて、淡々と答える。「そんなふうに言われて、動かないでいられる男がいるものか」いや、いない、とロイの野郎はわざとらしい反語口調で言い詰めた。
「い、いやだ、」
「どうして」
だって!とオレはムキになって声を荒げる。「は、はずかしいんだよ、当たり前だろ・・・!」
大体なんでオレが下なんだ、と、年上なのに、ともごもご言葉を口の中で転がしているオレの声を遮って、ロイは言う。
「大丈夫、」そうして、ちょっとばかり美しすぎる微笑を口元に貼り付けて、オレの瞼に唇を寄せた。「かわいいよ」
耳元で奏でられるバリトンに、う、うぅ、と唸るだけのオレにはもう、繋がれた両手を振りほどく力はなかった。


Dooard -ドアーズ- (5)
〔50万打&一周年記念フリー小説〕


またかよ、オレのバカ野郎、と寝癖でくしゃくしゃになった自分の頭を掻き毟った。またこの夢だ。もう三週間も前になる一度きりのあの情事を、まるでオレがそのことを恋々と感じているかのように、この馬鹿な脳はしつこく夢に見る。
隣で寝息を立てているロイを起こさないように、身体を静かに動かし、ベッドを抜け出そうと試みる。気付かれたらまずい、まずすぎる、と動悸を早めながら、オレは情けなくもすっかり熱を帯びている自分の中心をどう処理してくれようかと思案した。あろうことか、先端が既に少し濡れているのがわかる。泣きたい、とオレは心中で叫喚した。
そのオレの内心のシャウトがロイに聞こえたはずはないのだが、あにはからんや、ロイが目を覚ました。オレの体勢はちょうどロイの体の上を跨ぎこそうとするようなものだったので、ロイは当然のようにこちらを見た。そしてオレの下半身の異変に、目敏くも即座に気がついたらしい。泣きたい、とオレはもう一度無音で叫んだ。
ロイは左目を擦りながら、寝言のような声音で呟く。「・・・・お盛ん・・・」
だ、誰のせいだよ、バカタレ!と半泣きのオレが声にならぬ声でロイを悪罵すると、一旦目を閉じたロイが再び瞼を開けて、
「俺がしてやろうか」と提案してきた。これは名案だ、とでも言わんばかりの表情だ。
死ね!と今度はちゃんと声に出して、オレは喚いた。

四苦八苦して身体の発熱を鎮め、蹌踉とした足取りで食卓へ行くと、頭部後方に寝癖をつけたままのロイが、テーブルにスコーンとティーコジーを被ったポットを用意して待っていた。ばつが悪いオレは目を合わさぬようにテーブルにつき、気を散らすために興味などないはずのティーコジーをちょっとポットから外してみたりする。それから、アッサムか?などとこれまた付け焼刃な紅茶の知識を衒って一人呟いてみたりもした。セイロン、とロイはご丁寧ににべもない返事をオレに寄越し、ティーコジーを外すな、とも言った。あ、そう、すみません、とオレは一層きまりが悪くなるのを感じながら、面伏せで謝る。
どんな揶揄がオレに向けられるかと身構えたが、ロイは無頓着そうな顔付きで、世間になど無頓着、というような性格のくせにニュースを見るともなく見ている。オレにとっては全てが十年前の出来事ばかりなので、ニュースなど見る価値が無い、と以前は思ったが、これが意外に面白かったりする。ああ、あったあった!と死んでいた記憶が蘇生する感激に、思わず声をあげてしまうこともしばしばだ。それは、十年という結構、案外、膨大な年月が身にしみる瞬間でもあった。
「十年前の出来事なんてさ、ほとんど覚えてないのが実情だよ」
オレがテーブルに頬杖をついて声を投げてみると、ロイはこちらを一瞥してから、紅茶の仕上げに入った。「そりゃ、そうだろ」ポットを緩やかな所作で水平に回している。「俺だって十年前に起きたことなんて、すっかり忘却の彼方だ」さすがに大きい事件くらいは覚えてるけど、とティーカップを取りに行きながらロイは続けた。
カップを温め忘れた、と舌打ちするロイを横目にオレは言う。「十年って、結構、長いよな」
ブラウン管の向こう側で、スマイル有料、という風情の生真面目そうな女性が無表情に、景気の低迷について述べている。景気の低迷よりも、朝七時からのニュース番組で笑顔を振りまけないキャスターを起用したテレビ局のほうが、よほど問題があるように思えた。
「長いな。初潮も迎えていなかった少女が、十年後には子どもを持って母乳を与えている、それぐらいの期間だ」ロイは温めていないカップにそのまま紅茶を注いだ。面倒になったらしい。
「もっと他の喩えはないの」
「寝起きの俺には精一杯だ」ロイは模範的な低血圧のサンプルにでもなれそうな白い顔で、あくびをした。「三十兆くらいの細胞が、まだ寝ている」
「半分寝てるじゃねえか」ティーカップを温め忘れもするわけだ。
皿の上に規則性皆無の無軌道な並び方で載せられたスコーンを一つ手にとって、齧った。普通よりもかなり甘めの配合にしてあるらしく、何もつけなくてもなかなかいける。スコーンに水分を吸収されていく口内でぽつりと、十年か、と消え入りそうな声を吐き出した。
十年。約、三千六百五十日。身体を構成する六十兆の細胞は一年間で全て生まれ変わるのだと、どこかの書物で読んだことがある。一年前と姿かたちは同じでも、細胞は全て、一年前よりも新しくなっている。それが、十回繰り返される。十年前の細胞なんて六十兆分の一つも身体に残っていないように、十年前の記憶だってまるっきり綺麗に排除されていても、なんらおかしくないよな、と思う。
たった六十日間のこの同居生活を、ロイが十年後、まるっきり忘れてしまっていたとしても、それは不思議でもなんでもない。むしろそのほうが、きっと自然なのだ。容貌はおろか、きっとオレの名前さえ、彼は忘れてしまうだろう。人間は忘れることができる生き物だ。忘却、それはどう考えても美徳で、人間が神から授かった特殊能力だ。
十年は、長い。ちょっと、長すぎるくらいに。
今度はブルーベリージャムを塗りつけてから、スコーンをもう一口頬張った。酸味と甘味が手と手を取って混じり合う、えもいわれぬ美味しさだった。
「うまいだろ」ロイはセイロンのミルクティーが注がれたティーカップをオレの前に差し出した。馥郁たる香気がカップから惜しみなく放出されている。「力作だ」
うん、うまい、とオレは茫洋とした思索の中を漂泊している状態のまま返事をしたので、ロイが怪訝な表情を露にした。ほんとかよ、とつまらなそうに念押しまでしてきた。
ロイがオレのことを記憶の「ゴミ箱」に入れてしまうことは、常識的に考えて、当然だ。彼は十年後、二十七になっている。結婚して、子どもがいたっておかしくない。そんな幸福が充溢せんばかりの生活の中で、十年というはるか昔に、突如自分の家に居候としてやってきた不思議な男のことなんて、思い出す機会すらないのだろう。幸福な生活を送るので精一杯だ、たぶん。幸福を幸福のままキープするのは、なかなか至難の業だからな。
ロイは御覧の通りこの美形だから、それが世界の摂理とでもいうかのように美女の奥さんをしっかりつかまえて、その間にこれまた眉目秀麗な男の子が生まれたりして、そんな掃いて棄てるほどの幸が横溢した中で、こんなオレの付け入る隙が、どこにあるというのだ。アリ一匹、ミジンコ一匹、一億分の一センチの原子すら、入りこめやしない。
カレンダーを見た。もう十月下旬、タイムマシーンの有効期間は、残り一週間に迫っていた。
三週間前、胸中に燻るロイへの、情けなく、恥ずかしい思いを自覚したのはいいものの、女の子にだってモーションをかけたことのないオレが、一体どんな突飛なアクションを起こせるというのだろう。起こせるはずがない、百パーセント、そんなはずはない。
十年後、間違いなくオレの事なんて忘れられてる。
「どうした、溜息なんてついて」ロイが訝る。
「べつに」
十年後、でも覚えていてほしいと思うオレもいる。
こんなことなら、とオレは頭の中でもやもやと渦巻くコンフリクトに苛まれながら考える。
こんなことなら、十年後の世界で出会いたかった。

ロイの淹れる紅茶は格別に美味しい。ロイの作るスコーンも絶品だ。
オレは十八年間も、この味を知らずに生きてきていたのだと思うと、自分の人生がとても瑣末なものに思えてしょうがなかった。
この紅茶の味を知ったら、スコーンの味を知ったら、これなしでは、生きていけない。
そんな気がしていた。

***

きらきらした時間は瞬く間に過ぎていく、その速度と同じ速さで、やってくることを厭うような日もこちらに近付いてくる。つまり、厭うような日があるからこそ、日常はきらきらしている。苦がなければ楽なんてない、死のない生が無様で、愚にもつかないようなものであるのと同様に。
昨日も今日も時間は、それは反則だろ、というような音速のスピードで過ぎていき、気がつけばまた、月が夜空にぽっかり穴をあけていた。オレがここへ初めて来たときよりも大分肌寒くなった、とりわけ夜は殊更に冷える。オレのベッド、もといロイのベッドの上に重なる布団には新参者が一人増え、寒がりのロイのちょっと高級そうな寝巻きは、長袖に変わった。
あと三日。その言葉を、歯節へ出すのは怖かった。だからずっとその言葉は口内で留まって、酸素と一緒に肺へ、そして血液に侵入して漸を追ってオレの身体中を蝕んでいくみたいだった。
ロイはどう思ってるだろう、と考えながら寝返りを打ったら、そこにロイの背中があった。どう思ってる?オレは口を閉ざしたまま、テレパシーを送ってみる。
人間という生き物は、この極端に精密で有能で偉大な脳というものを、たったの一パーセントしか使いこなせていないらしい。更に、あと一パーセントでも脳を利用することが出来れば、テレパシー能力を使えるようになる、とも聞いたことがある。でも残念ながら、どうやら例に漏れずオレも、一パーセントの脳しか使いこなせていないことがわかった。だってロイは、オレがどんなにテレパシーを送っても、寝息を立て続けているからだ。勿論そのほうが、好都合だったわけだけれど。
オレは未来へ戻るわけだから、会おうと思えば、すぐにでもロイに会いにいけるのだろう。オレをロイが忘れてしまっていたとしても、だ。だけどロイは、十年後までオレとは赤の他人だ。ロイという人間を認識しているオレと会って、話すことが出来るのは、十年後の話なのだ。
さみしいと思わないのかな。オレはぼんやり思考する、希求の念にも似ていた。そうして、なんだかオレのほうがさみしくなった。
ロイは今日も昨日も、たぶん明日も、いつもと同じ、シニカルで、森羅万象に無頓着、というような顔で振舞う。そのいつものモラールに欠けたロイの情調が一変したのは、あの夜だけだった。
あの夜──一度だけ抱きしめあったあの夜、ロイはどんな気持ちでオレにキスをして、どんな想いでオレに触れたんだろう。産毛だけを撫ぜるような優しい触れ方で、そうかと思えば強い力でオレを抱き締め、それはそれは至る所にキスの雨を降らせて、その雨露はオレの昂ぶった自身にまで及んだ。
その間、終始ロイは薄く笑んだままだった。何度もオレの髪を梳き、何度もオレの耳朶を甘く噛んだ。何度も、何度もオレの名前を呼んで、オレは何度だってその声に吐息で答えた。
エド、と彼は言う、その言葉をたくさん紡ぐことで、何かの言葉の代わりにしているみたいに。その言葉がなんなのか分かる気もした、否、分かるというよりは、オレがそうであってほしいと思っているだけなんだろう。ただの思い過ごし。ただの、希望的想像。

五センチ前で、ロイの背中が規則正しく呼吸を繰り返している。あの夜以降、一度も埋まらない五センチ。この五センチが、あと三日で、十年になる。
怖かった。離れたくなかった。オレが生きていたはずの十年後がもう、オレには見えない。
十年という大いなる存在に、惰弱にも萎縮しているオレがいる。早く帰りたかったはずなのに、退屈で仕方なかったはずなのに、この背中から、一時も離れたくない。
どうしようもない板ばさみ。ロイに出会えて良かった、でも、出会いたくなかった。こんなに辛いなら、あの小さなタイムマシーンに、触れるんじゃなかった。
ロイ、と小声で呼んでみた。応答がないのを待って、彼が寝入っていることを確認する。そうしてから現前する五センチを乗り越えて、ロイの背中に額を当てた。
「・・・・すき、」この声が、どうか、ロイにも、神様にも、聞こえていませんように。「すき・・・」
こんな滑稽で馬鹿げたオレの姿を、誰にも知ってほしくはなかった。

その夜は少しだけ、ほんとうに少しだけ泣いた。

***

何を言えばいいだろう、とオレはきょろきょろと辺りを見回すことで、何某かの話の接穂を探したけれど、どこにもなかったし、あるはずもなかった。でも何か言葉を発さないと、じわじわと体内に染み込んでくる感情に負けてしまいそうだった。オレの目から涙を、涙から悲しみを、悲しみから絶望を生んでしまいそうな、そんな感情に。
小さなタイムマシーン、世紀の大発明品を間に挟んで、オレとロイは向かい合って座っていた。そのタイムマシーンの下の液晶には、「95/10/31/14:01」とある。オレがこの土地へタイムスリップしてきた時刻が「05/08/31/14:25」であるから、あとおよそ二十分で、このタイムマシーンの効能は切れる、はずだ。
オレとロイの間には、沈黙が落ちている。二人ともただ、この奇跡の発明品を、じっと凝視していた。ロイがたまに首を回して、ポキ、と音を立てる、これは手持ち無沙汰なときにでる彼の癖だ。二ヶ月も一緒に暮らしていれば、それくらいのことは承知済みだった。
色々伝えたいことがあるはずだった。でも何一つ、うまく言葉になって出てこない。あと二十分しかないというのに、オレがこの場から消えてしまうという事実を、未来に帰還するという事実を、まだ呑みこめないでいる。
「・・・い、色々、ありがとうな、お世話になりました」ひとまず謝礼をするのは礼儀だと思い、オレは座ったままで恭しく頭を下げた。「二ヶ月の食費分は、働けてないと思うけど」すみません、と肩を竦める。
いや、とロイは短い音でオレに返答したきり、口を噤む。いつものアイロニーが飛んでくるのをすっかり予期していたオレは、少し拍子抜けした。
一度口火を切ったら、重厚な枷がついていた口が若干軽くなった。何か不可視のものに押しつぶされそうになっている肺に無理矢理空気を送り込んで、オレは続けた。
「最初は、ロイも戸惑っただろ、いきなりオレみたいな見ず知らずの男がやってきて、『家がない』なんて言い出すだもんな。オレだったら即座に扉を閉めて、チェーンまで掛けるところだよ」一瀉千里といったふうに、捲くし立てる。だけど、ロイに目を合わせることができずにいた。彼の静謐なあの双眸を見つめたら、途端に涙腺が崩壊しそうだった。「さすが、下宿屋をやっていただけ、あるよ」
ロイがもう一度首をポキリとやって、口を開いた。「言っただろ、俺はそういう親の方針に肯定的ではなかったって。普通に考えて、自分の家に他人が泊まるなんて、あんまり好ましいものじゃないだろ」
二十分ぶりくらいに聞いたロイの声に、耳を欹てる。沈黙に支配されていた重い空気が、緩和されていくのがわかった。オレは顔をあげて、ロイの目を見て、言った。「じゃあ、なんで・・・?」
「なんでだろうな」ロイの瞳も、オレを見つめ返してきた。「でも、エドならいいか、と思ったんだ。なんでか、こいつは俺が守らなくちゃ、って思った。ほとんど初対面の人間なのに、だ」
なんで、と思った。なんでそんなこと、今言うんだよ。
「なんで・・・?」ロイから目を逸らして、俯いた。言葉も、息も詰まった。唇を噛んで、両目に急速に集まってきた熱い液体を溢れさせないように努力した。「・・・そ、そんなこと、今言うな・・・」格好悪い涙声だ。笑われる、絶対、笑われる。
ばかやろう、と呟いたら、床に二つシミができた。堰を切ったように、三つ、四つと増えていく。両手を当てて嗚咽が口から逃げ出さないようにする。肩が震えた。手も、唇も小刻みに震え、正気を失いそうだった。
次の瞬間、身体が大きく揺れた。なんだ、と思って目を開けたら、ロイの胸の中にいた。苦しくて痛いほどの力で、背中に回ったロイの腕がオレを包んでいる。一秒目にびっくりして、二秒目に息が止まって、三秒目にまたオレは泣きだした。そして十秒目に、ロイはオレの髪に少し粗野な仕草でキスをして、驚いたオレの涙は十一秒目に止まり、十二秒目にロイが話し始めた。
「好きだよ、エド」
オレを抱き締める腕は乱暴だったのに、ロイの声はとても優しくて、穏やかだった。「言葉にするのが、怖かった。言葉にしたら、これからの十年が、きっともっと辛くなると思った」
一旦は止まった涙が、またオレの瞼の裏から、どんどん産出されてきた。オレもロイの背中に腕をやって、弱弱しく抱き締め返す。この背中を、手放さなくちゃいけないなんて。
「でも、必ず待ってるから」ロイは黙って泣き続けるオレの頭にもう一度静かに口付けを落とした。「とっておきの紅茶を用意して、待ってるよ」オレの身体をちょっとだけ支離して、涙だらけのオレのよごれた顔に、楽しそうにまたキスする。オレは黙って受ける。涙が顎から滴って、止まらないでいる。
「十年後の、そうだな、エドも心の準備があるだろうから、三日後にしよう。十年後の九月三日に、この家で会おう」ロイがオレのおでこに、自分のおでこをくっつけた。「ドアーズの紅茶がいい。未来のドアと、過去のドア、二つからやってくる二人の再会には、ぴったりだろ」
まあ、スペルは違うんだけど、とロイは涙で濡れたオレに笑った。オレもつられて笑って、頷いた。
「だから、帰っても泣くなよ」ロイは不敵な笑みで言う。
「・・・お前がな」オレも言い返した。
そのまま暫しの間抱き締めあっていたら、オレの身体が途端に透け始めた。あ、と思ってロイを見ると、ロイも同じ顔をしていた。
デジタル時計然としたタイムマシーンは、「95/10/31/14:24」を示している。タイムリミットだ。
ロイはちょっぴり悲しみを隠した笑顔を浮かべて、最後に言った。
「三日前の告白は、かなりグッときたぞ」
お、お前、起きてたのかよ!というオレの声は、もう音にならなかった。

世界が、希望だけを残して、白くなった。

***

瞼を開くと、まずオレの部屋の天井が網膜に映りこんだ。瞼が開けづらかったのは、どうやら泣いていたかららしい。
ぼうっとした頭で、しばらくベッドの上に横たわったまま、身じろぎ一つしないで天井を見つめていた。夜のうちに無意識に剥いだのだろう、昨晩オレの上にあったはずの布団は今、部屋のフローリングの床を暖めている。
(・・・夢、か)ずいぶん、生々しくて、長い夢だったな。
タイムマシーンね、と脳に潜在しているらしい自分の幼稚な発想に笑った。しかし、男と恋に落ちる夢とはなあ、とこれまた自分の潜在意識に驚く。欲求不満か?と上半身を起こして、頭を掻いた。
その直後、今日が夏休み最終日だということを思い出し、気持ちは一気に塞ぎこんだ。宿題どうしよう、と三秒悩んで、諦めた。課題をやらせるくらいなら、夏休みなんて作るなよ、と明日担任に言うことにしよう。

始業式を終え、漫然と学校生活を過ごしていると、ふと見上げた黒板の右端に、今日はもう「九月三日」と書かれていた。あ、とオレは一瞬思う。そういえばあの夢の、ロイとかいうやつと約束した日だな。
「・・・まさかな」あれは夢だったのだ。タイムマシーンなんて、この世のどこにも存在していない。当たり前だ。だって、まだ21世紀だぞ。
そう言い聞かせるのに、どうしてこんなに胸がざわつくのか。訳も分からず、勝手に色めき立っている胸のあたりも鬱陶しいし、午後の授業も同じ位鬱陶しかったので、散歩がてらだ、と思いながらオレは席を立った。
昇降口で靴を履き替えていると教員に呼び止められたので、悪心がするので帰ります、とだけ言い、踵を返して校門を出た。散歩だよ、散歩。言い聞かせるのに、なんだか息がしづらかった。

駅で路線図を眺めてみると、ルートヴィヒスハーフェン駅というさながら早口言葉のような名の駅が本当にあった。十二駅先か、結構遠いな、と呟いた自分に気がついて、自分が本気でそこへ行くつもりであることを知る。
電車賃を払い、改札を抜けた。合言葉は、「散歩」。そうでもしないと、この自分の行為が、あまりにも馬鹿馬鹿しくて目も当てられないからだ。
ホームに立っていると、ほどなく電車が気だるげにやってきた。閑散とした昼間の駅で、学生姿のオレは明らかに浮いている。

うたた寝している間に、目的の駅に到着した。初めて降り立ったはずのその駅は、夢で見た光景とまるっきり同じで、オレは己の才能に舌を巻いた。駅を出、初めて訪れたはずの村なのに、足は勝手にどこかへ向かって歩を進めていく。そして見覚えのある田園風景から、見覚えのある屋敷が徐々に現れてくる。その頃にはもう、オレの心拍数は上限まで上がりきっていた。
明媚かつ雄麗な田園の眺望も、真っ直ぐに天へ伸びた無数の稲も、オレの視界には入っていなかった。オレは視界に収まりきらないくらい巨大な屋敷の前に立つ、でも、怯んだりはしなかった。不思議な感覚だった。それは懐かしいような、新鮮なような、錯綜した心境だけれど、ひとつ確かなのは高揚感だった。
オレは、然したる遅疑逡巡もなく、インターホンを押した。誰か出てくるかは、なんとなくもう分かっていた。
がちゃり、と高級という名の鉄材でできた扉が開いた。開かれた隙間からおもむろに顔を出したのは、オレと同い年くらいの青年だった。
「・・・どちら様?」
ロイと同じ顔をした若い青年はオレを誰何する。そうか、十七歳のままなのか、とオレは心中でほくそ笑む。そりゃ、そうだ、あれは夢だったのだから。未来を予知する、不思議な夢だ。
青年の後ろ側から、オレがまだ嗅いだことのない茶葉の香りが漂ってきた。そうか、これが、とオレは閃く。「これ、ドアーズの香りだろ」
なんで知ってる、とロイはあからさまに不審な顔をした。この香りが分かるとはなかなかやるな、おぬし何者だ、という顔でもあった。
オレはやはり少し、気が触れているらしい。先ほどまで胸にあった高揚は、既にきらめくような早い鼓動に変わっていた。
(会いにきたよ)

オレは脳みそを高速で回転させて、ロイがオレに一番の興味を示してくれるには、どんな言葉がいいかな、と思案した。
あ、そうだ、やっぱり、あれがいい。

「・・・・・オレの家がさ、消えてるんだ」

ロイがオレを、追い返すはずはない。嘘をついたことは、後から、謝ろう。
オレたちはまたここから、恋をする。
今度はリミットなし、そう、心行くまで。


*END*


テーマ : 鋼の錬金術師 - ジャンル : アニメ・コミック

Comment

Comment Form

管理者にだけ表示を許可する

Trackback


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)